ごあいさつ 荒川 善久(あらかわよしひさ)牧師

初めまして。けいはんなキリスト教会の牧師、荒川善久と申します。
教会に興味をお持ちの方は、そこにどんな人が集っているか、牧師は一体どんな人なのか、知りたいと思ってらっしゃることと思います。
そこでまずは自己紹介をさせていただきます。
挫折と勧誘
遡って1988年のことです。当時、浪人生となってしまった18歳の私は、受験失敗による挫折感と虚しさの渦中にいました。そんなある日、模擬試験の帰りにふと街頭で声を掛けられました。
試験がうまくいかず、やる気も失せ、自暴自棄な気持ちになっており、このまま真っすぐ家に帰りたくないなあと思っていたところでしたので、聞かれるまま気軽にアンケートに答えていきました。 そして、そのままのこのことスタッフについて行ったのですが、それは、キリスト教三大異端の一つである統一協会でした。私は勧誘されるまま統一教会員になってしまいました。
20世紀末の世界観
当時の時代背景を少し紹介したいと思います。この後にオウム関係の事件が次々と起き、1994年には東京の地下鉄で毒ガスサリン事件が起きるというそんな時代が待ち受けていました。『ノストラダムスの大予言』を耳にされた方は多いでしょう。
恐怖の大王が1999年に地球に降りてくるという予言で、当時、大の大人も結構本気で信じて多くが惑わされていました。オウムの事件があってからは、世界の終わりが本当に来るかもしれない、と特に若い世代の人達は恐れていました。しかし、実際はそういったことは何も起きませんでした。
ちょっとした歴史通の方ならば、こういう事は遠い昔にも起こっていたことを御存知だと思います。キリスト教が西洋または世界の中心であったA.D.900年代末に、もうすぐ1000年(ミレニアム)になるからきっとこの区切りの良い時にこそ神様の千年王国(聖書にある地上の天国)が始まるに違いない、と。そう思って待っていたけれど1000年を迎えても何も変わらない、相変わらず貧しい人は多いままだし、戦争も無くならない。あれっと。
そして、今の時代に生きる私たちは、2000年を迎えて同じように何事もなく過ぎていくのを目の当たりにし、1000年の時と同じように偽情報に惑わされていたと分かりましたね。
しかし、私が統一教会にのめりこんで行った理由の背景に、こうした終末論への不安から物事の考え方が厭世的になり、そんな渇望した心の空洞を統一教会という組織に埋めてもらえるかもしれない、と潜在的に望んでいたからだと思います。人の心というものは本当に弱いものです。
結局私は2年の間、統一教会にどっぷり浸かりました。情報統制された組織の集まりに全く疑問を抱かず、家族の意見に全く耳を傾けない、心をコントロールされてしまった状態に陥っていました。
しかし、幸いにもその後、家族と正統なキリスト教会の働き(エクレシア会)のおかげで私は辛くも救出されたのでした。
(統一教会という組織で見てきたこと、救出劇について、また私がどのようにして心の支配から解放されていったかは非常に重要な所ですが、ここではとても語り尽くせないので省略します。お知りになりたい方は、ぜひ教会にいらして直接お聞きください!)
キリスト教会への導き
さて、その後、大学の部活の一人の後輩が統一教会と関わりがあるのではないかと思う出来事がありました。何とかこの後輩に組織の過ちを気付かせるには、まず自らが誤解の根たる聖書を知らねばと思い、私がそのころまだ定期的に集っていた脱会者の集まりに出席していたクリスチャンに誘われていたのもあってキリスト教会に通い始めました。
名古屋市にある緑バプテストキリスト教会(日本バプテスト教会連合)というところでした。毎週通うようになり、そのうちに私自身が聖書にある「迷える一匹の羊」であったことに気付かされていったのです。
ミイラ取りがミイラになったかのように、社会人としてのスタートをきった24歳になる年に、河野勇一牧師により洗礼を受けました。
(統一教会の心理的支配からやっと解放されたのにかかわらず、宗教嫌いにならず、なぜ教会に導かれ得たということ、また、どのように本当に救いに気づいていったかについても、とても重要な所なのですが、ここも敢えて省略します。直接お聞きください!)
「献身」
統一教会では「献身」という言葉が、組織にとって都合の良い金集めの為に利用されていました。もちろんキリスト教会ではそのような使われかたは一切しておりませんが、私は、献身だけは絶対にしないと心に堅く決めたクリスチャンとなっていました。
しかし、神様は御手を伸ばされ、一度捕まえた獲物は離さないと思わされるような熱心さによって、その後、私の決心を覆す計画を備えておられたのです。
牧師への導き
きっかけは、教会の河野牧師に「聖書をより学べる所があるよ」と勧められ、東海神学塾という神学校に足を運んだことにあります。大学を卒業して社会人となっていた私は、仕事が終わってから神学校へ向う生活を始めました。はじめの内は信徒奉仕者コースの一つ二つの単位でしたが、学びが深まると徐々に授業数を増やしていきました。
一方、そのころ私は社会人として仕事の行き詰まりを感じていた時期でもありました。凄腕上司にストレスを覚え、仕事を辞めようかと悩んだこともありました。 仕事からの逃避ではありませんが、残業せずに神学校へ向う日々は、いつしか力を得る源となっていきました。
その内に職場の配置替えがあり、職場環境と仕事内容が一新され、私は仕事と学校を両立できるようになっていきました。こうしてさらに神学校での学びは深まって行き、そこで触れて感じとっていく教授の宣教スピリットによって次第に私は影響を受けていきました。
そんな1997年暮れ、私にとって大きな転機となる時がやってきました。ひと月に同じ内容のメッセージを三度も聞いたのです。そのメッセージの内容というのは、「働き手(牧師等)が少ない」という主題でした。特に10〜20年先を見越した日本の将来、牧会者の減少が警告されたのです。
このメッセージは、聞いていた私個人に対して与えられた神様からのチャレンジとなり、ぐっと心に響いてきたのです。その時、私は心の中で(礼拝中だったので)このようにお応えしました。聖書の中の有名な言葉ですが、イザヤ6章8節の「ここにわたしがおります。私を遣わしてください」と。
このようにして神様の為に身を献げる(=献身)だけは絶対にしない!という私の固い自我は溶かされ、牧師になろうと決断させられたのでした。(こののち東海神学塾の信徒奉仕者コースから教職志願コースへ変更)
聖書との出会い、その中に示された神様を知るかたちは様々です。キリスト教会には各々、聖書の神様との出会いをした方が集っています。 どんな出会いがあったのか関心を持たれたら、是非、先ず聖書を開くことから始めてみることをお勧めします。そしてどうぞ教会へ足をお運びください。 私たちの教会が皆さまのお役に立ち、神さまとの出会いの場となれるよう心より願っています。ハレルヤ、アーメン。
ジェフ・チャプマン宣教師(準備中)

私が教会に来たキッカケ

「私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方」(エペソ3:20) この聖句をいつも思い、告白しています。
福音を聞き、救われてから40年以上が経ちますが、真理を知り、救われた喜びの人生に感謝と力が年ごとに増して、溢れています。
還暦も過ぎ、更に主を慕い仰ぐ日々ですが、とりなす祈りはなお多く、占領すべき地は非常にたくさん残っていることを感じています。
就職して配属された部にクリスチャンの先輩がいて、ベン・ハーの映画の伝道集会に誘われ、毎週教会に行くようになり、信仰を持ちました。イスラエル旅行にも行きました。
この世界には絶対的な真理があるはずだ、とよく考えるような子どもでした。
先輩からの誕生日プレゼントは、イエス様が葬られ、蘇った墓の絵ハガキでした。
「He is not here. He has risen.」その聖句と空(カラ)の墓の写真が胸に迫り、涙が止まりませんでした。主は私の罪のために十字架に架けられ、死んでこの墓に葬られた。
そして、確かに約束通り蘇って、今も生きている。ここにはいない。悔い改めと救いが同時にやってきました。
そのブラザレンの教会とリーダーたちに躓き、悩み苦しんだ末に教会を離れ、信仰のない相手と結婚しました。結婚式は神に打たれるのではと思うほど、心も病んでいました。
信仰が回復したのは、ウィーンの日本語教会でした。主人の仕事の関係で、四か国の日本語教会に集い、信仰も癒され回復して、進んできました。その主人もドイツ駐在中に救われて洗礼を受けました。ハレルヤ
主のあわれみは深く、尽きず、時にかなって美しい。私たちの願いと思いをはるかに超える。主は本当に良いお方です。人は教会でも人の言葉でも傷つきますが、神のことばは生きていて、力があり、人を癒します。完全な癒しは主からきます。
数年前のある夜、友人の病の癒しを祈り続けていた中で、腹の底のギアがはっきり見事に大きく切り替わる特別な体験をしました。
主にお会いする日まで、願うことはただ一つ。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます」(第一テモテ2:4)

私は子供の頃から不安が強く、いつも何か悪い事が起きるのではないかとおびえていました。高校時代、学校の近くにあった教会に行き、ここには今まで見たことのない真実な世界があると感じていたのですが、結局家で聖書を読むこともないまま大学生になると教会に行かなくなりました。
当時は、学生運動が激しかった頃で、興味を持った結果、神などいないという世界に完全に入ってしまいました。以来30年間、私の心にはいつも空洞があり、何をしてもそれが埋まらないあせりと不安の中で、目の前のことに意識を集中することで気を紛らわせていました。
結婚して子供ができると、変に責任感の強い面があった私は、自分が家族を守らなければならない、子供たちを誰にも頼らないで生きていける人間に育てなければならないと思いつめ、必死に努力しました。(後に、その的外れな努力が過干渉で、子供たちの心を傷つけ心の成長をはばむものだったと分かりましたが。)
夫が、職場での問題で今にも辞職しそうになり、高校生の娘が登校困難になり、私の不安と緊張がピークに達し、心の病に倒れました。心療内科を転々とし、東洋医学も効果なく、精神病院に通いましたが悪くなる一方で、自殺ばかりを考えるようになりました。そんな時、ふと『神という方が本当におられて、こんな私でも受け入れて下さるなら生きれるかもしれない』という思いが浮かびました。
≪その日≫、何気なく時計を見て11時と分かった瞬間、「今ならどの教会でも礼拝している。教会へ行こう!今行かなければ二度と行けなくなる!」という切迫した思いが沸き起こり、何かにひっぱたれるかのように、教会に飛び込みました。
家に帰って聖書を開くと、「思い悩むな。あなたがたの父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな(マタイ6:31~34)」とありました。
ここを読んでいると、神が大手を広げて私を受け入れて下さったと感じ、涙が止まりませんでした。ただ神を求めるだけでいい、神を無視して思い悩むのがまちがい(罪)だったのだと分かり、生まれて初めて、心の底からの平安に満たされました。今は、イエス・キリストが罪びとである私の身代わりとなって十字架刑で死なれた事、三日目によみがえって、今も生きておられる真の救い主であることを確信し、ゆらぐことのない平安と喜びに生かされています。

僕の祖父(1889年、明治23年生)がクリスチャンでした。家が理髪店だったので、家族、住込み店員7〜8人が閉店後に集まって、祖父のリードで、讃美歌、聖書朗読の家庭礼拝を捧げていました。僕は母の膝の上とか傍らで礼拝に臨んでいました。
幼少期には、僕は辛い時、イエス様に助けを求める祈りの仕方などを母から教えてもらいました。朝、学校へ行く前、いじめっ子から守られるように祈ったことを覚えています。しかし、小学生の高学年になる頃から、友達、世間の慣習と異質なことで、家がキリスト教であることが嫌になり、だんだんイエス様から離れていきました。
学生時代、会社人生では、自分の努力、自分の力に自信が付き、高慢になり、自尊心から自分本位の生活の中に生きるようになってきました。そんな中、兄が亡くなり、父が亡くなり、母を今の住まいに引き取ることになりました。母が我が家での新しい生活、環境に馴染めず、だんだん精神的に疲れ、幻覚症状が出てきたので、教会で讃美歌など歌ってもらえれば癒されるだろうと思い、僕としては初めて教会を訪れました。
1998年8月のことです。そこで、僕はイエス様と再会することができたのです。母は疲れるということで一度だけの礼拝で終わりましたが、僕は心の癒しを覚え、毎週教会に通い出しました。母を癒してもらうつもりが、自分が癒されることになるとは!神様は罪のるつぼの中に蠢いていた僕を探しだしてくれて、洗い、清めてくださり、御前に座らせて下さったのです。神様は僕を忘れずに、忍耐強く50年も僕を待ってくれていたのです。
2001年10月21日にバプテスマを受けました。母の病を用いて、僕を救いの道に導いてくれたのです。会社の中での難題、悩みを祈り、解決の道への啓示が与えられ、癒される恵みを受け取ることが出来るようになりました。イエス様の待ち続ける忍耐、祈りに応えてくださる真実の愛に心から感謝です。ハレルヤ!
エフェソの信徒への手紙 2章 3節~5節わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。 4しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、 5罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――
思えば、明治の時代に教会もない環境で祖父はどうしてイエス・キリストを信じるようになったのか、全く不思議です。耶蘇教と世間から揶揄される中で信仰を続け、家庭礼拝を催し、家族にも継承されていること。今になって改めて祖父の信仰信念に敬服し、感謝を送ります。僕の信仰は弱いものですが、子供たち、孫たちにつないでいきたいと願っています。
